向かって左から、顕徳会会長、中島由美子、岩木夫妻は私の親戚になります。後方は寿徳寺住職です。

 

田中正造翁法要


顕徳会会員のみなさん
【田中正造と室田家】 
  足利市久野村渡良瀬川周辺は、絶えず汚水に悩ませられ続けていた。明治23年に大洪水が発生し、渡良瀬川上流の足尾から鉱毒が流れ大きな被害を出した。農民たちは、足尾銅山の鉱業の停止を訴え、古川鉱業や明治政府と闘ってきた。被害の農民は押し出しで明治政府に操業停止を迫った。室田忠七は、第1回28歳で押し出しに参加した。そして、鉱毒委員、請願委員を務め、第4回目の押し出しで川又事件が起こり、室田忠七は被告となった。その後、村会議員や郡会議員を歴任した。

 室田忠七の孫娘、室田かつが我が家に伝わる内密の話として、田中正造の葬儀のあと遺骨を分骨してもらい、その後、室田家の菩提寺(寿徳寺)に密に埋葬してもらった。孫娘、室田かつが思い出し、室田仁(初代顕徳会会長)と山田秀穂(現顕徳会会長)とその事実を寿徳寺に確認した所、その記録が残っていた。

 この事から、田中正造の法要と貢献をたたえる為に顕徳会が平成元年に設立、毎年、3月の第1日曜日に田中正造翁の趣旨の基に野田地区を中心に鉱毒事件で戦った人々の子孫を集め、風化させないよう子々孫々まで田中正造翁の戦った歴史を伝えるため活動をしる。田中正造翁の功績をたたえる顕徳会では、会員を募集している。

                    岩木照代(室田仁 二女) 記